***6年2組のページ***

happyou  薪小学校の校区内に、一休寺(酬恩庵)があります。私達の学級では、 社会の学習に合わせて、一休禅師について学習をし、班毎に発表をしました。
 その内容の一部を紹介します。

『薪(たきぎ)』の里の一休さん

 薪という地名は薪という神火の用材の産出地ということである。
 一休さんが初めて薪庄に巡錫の枚を入れられたのは、室町時代の永享元年(1429) 三十六歳のころである。
 大応国師の遺跡・妙勝寺仏殿再興の決意を固めた一休さんは、その雅号『狂雲』の 通り各地を巡錫・布教しとどまる所を知らなかった。
 そして、一休さんは薪村を永住の地と定めたのである。


一休さんの略年表

1394年(応永元年)0才一月一日、京都で生まれる。
命名「千菊丸」。
1399年(応永六年)5才京都にある禅寺「安国寺」に入り 像外艦和尚の弟子になり、「周建」という名を与えられる。
1405年(応永十二年)11才一休は大変賢くて、安国寺での 勉強では足りなくなったため、「壬生寺」の清叟仁和尚について学ぶ。
1406年(応永十三年)12才建任寺の慕詰はん和尚に 詩を学ぶ。
1409年(応永十六年)15才このころから貧しい人や学問のない 人たちのために、よいお坊さんになろうと考えるようになる。
1410年(応永十七年)16才西金寺の謙おう和尚のところへ移り 「宗純」と名を変える。
1414年(応永二十一年)20才謙おう和尚が亡くなり寺を出る。
1415年(応永二十二年)21才滋賀県の琵琶湖の近く堅田という ところにいる華叟和尚の弟子になる。
1418年(応永二十五年)24才華叟和尚から「一休」という名を もらう。
1420年(応永二十七年)26才5月20日の夜明け、 琵琶湖の船の中で悟りを開き、それ以降旅に出る。
1428年(正長元年)34才華叟和尚の病気を知り、 お寺へ帰って看病するが亡くなる。そこで、一休はまた旅に出る。
1432年(永享四年)38才奈良や大阪を歩く。
1467年(応仁元年)73才京都の町の近くにいるときに応仁の乱が 起こったため、前にいたことのある薪村に逃げ、酬恩庵に住む。
1469年(文明元年)75才7月。薪村にも戦いが広がってきたため、 大阪の南の方へ逃げる。
1474年(文明六年)80才薪村へ帰り、天皇の命令で大徳寺の和尚になる。 また、天皇から紫の衣をもらう。
1481年(文明十三年)87才10月21日。薪村の酬恩庵で亡くなり、 丘の下にほうむられる。

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